2017年05月16日

ワン オブ 残党

今日  ロッキー前にて遭遇 現在85歳のキサブロさん

久し振りに旧満吉丸の船員に会いました
この人は 私が東京から帰ってくる前から うちの船にのっていて 私が廃業する最後まで
乗っていてくれたので おそらく約40年以上うちの船の船員さんでした
第62号~ 65号~ 88号 巻き網運搬船のコック(料理賄い係り)で 枕崎で この人の作った飯を 大分と
ご馳走になりました
焼酎と花札博打を こよなく愛する人物ですが 全く コワモテでなく 
モノを大切に使う倹約家で 船で使う軍手など 勝手に彼の許可なしでは新しい軍手は
使えないという 会社にとっては 有り難い存在でした
船員さんたちが闇中 金欠になって 金を借りにいくのも この人のところでした
現在 姉さんと 二人暮らしだそうで
自宅から 往復5~6キロ位の道のりを自転車にも乗らず(実は乗れない)歩いて買い物にくるらしく
観てのとうり 袋もマイバックです

美空ひばり の大ファンで
昔 牛深に 美空ひばり が総合センターで来演した時
一番 前の席を確保して ひばり の歌を食い入るようにみていて
♪ ♪ 「惚~れた~ 惚れたぜ お前に惚れた~ 」と 
ひばり からウインクして指を差された時は 卒倒するほど 身体中が シビレてしまって 
2.3ヶ月 ケイレンが止まらなかったそうです 

私のプライベート人物ネタで申し訳ありません
彼を知っている人で まず ネットなんて知っているは皆無だと思います
亡くなった人が多い中 元気でなによりだよ 
実直真面目も長寿の秘訣かも知れんね


  


Posted by 波場印  at 15:44Comments(4)巾着船

2016年10月08日

亀と竹竿


牛深に限らず 昔 漁業を営んでいた旧家の家の床の間には大抵 この亀の剥製があります
もちろん 私の家の母屋のほうにも 全長1,3メーター の鼈甲亀が私の小さい頃い頃から置いてあります  


私が小学校2年生か3年生頃だと思うのですが
牛深の田舎では お盆と正月 まず真っ先に 父の実家 元家などへの ご先祖様に必ず
ご挨拶しにいくのが父の厳命でした
大酒飲みの大嫌いな叔父の仏壇 の前にも御参りするため しぶしぶ行っていました

そこで ある年の正月 父の元家 本家 そこの家の床の間には亀の剥製はありませんでしたが
3メートルくらいの観るからに綺麗といえない 油光した竹竿が床の間に立てかけてあるのが気になって
その元家からの帰り道すがら 父に「あん竹は何な?」 と聞いたら
父が噛み砕く ように教えてくれました

昔 沖で亀が口ばしと 手で竹竿をクルクル回して遊んでいる場面に遭遇した漁師は 
大変珍しい場面を観た漁師 ということで
その後の機運 運勢が良くなり 大成功の漁師生活が約束されたものだとのジンクスが広くあったそうです

父が言うには 亀は腕はあっても指はありません 竹竿を掴もうにも くるくる回って 掴みきれないしぐさが
あたかも 亀が竹竿で遊んでいるように観えたのでしょうね
いずれにしても運気のいい千歳一隅の場面に 亀と一緒に その竹竿を持ち帰り
(亀には丁寧にお神酒を飲をませて 海に返してやることが多かったみたいです )
床の間にその 竹を家の家宝として飾ってある家が多いことを知りましたが
父も 「その場面を何回か観たと?」 と訊いたら
昔の八丁艪の船は船棚が低いので 何度か見た というようなことを言いましたが
あまり そんなことには 関心はなかった と言いました
そして 父は 亀は広い太平洋を単独航海するのだから 時々は くたびれて泳ぎつかれた
亀がする行動からかもしれんから
それを邪魔するのは あまりいい事では 無いかも知れんね  と言って話を締めくくりました

ちなみに家に置いてある亀は沖で網の中に入ったのを 単純に剥製師に造ってもらっただけのモノということも知りました

まずもって 牛深では 父の話が一般的だと思います
彼方の地方の漁業部落では 竹竿と亀の話 残っていたら 聞いてみたいですね  
タグ :牛深漁業


Posted by 波場印  at 21:00Comments(0)巾着船

2016年07月09日

第七満吉丸物語(昭和30年頃)


第7満吉丸物語
前回の巾着船ブログ(5月)で紹介した父が最初に造った本船(初代 3満吉丸)は
稼動して いきなり 牛深 片島沖で  
当時 開発されたばかりの魚群探知機で米粒くらいの魚群反応だったのらしいのですが 
操業したところ それが奇跡的というべきか 偶然にも 真鯛の大魚群で
ダンベ1隻、デッコウダンベ、にも満載しても積みきれず 本船にも積んで
出だしから 真鯛を”本船積み”という 前代未聞の大漁をしました
今の私の想像ですが 当時の運搬船(ダンベ)がデッコダンベと合わせて約1500箱積載(一箱15㌔入り)
本船の甲板に100箱積載   合計1600箱(㎏で換算して24トン)
1匹 2キロ平均の鯛だと ひとつのトロ箱に5~6尾入ったとして 1600箱ですので
   約8000尾
の鯛を一晩に獲って とにかく 現在の金額に換算すると
想像できないくらいの 水揚げ金額を記録したと思います

父が幸運の持ち主だったか この本船に運があったのか 船主船頭ナッパ服親方として 
牛深でも飛びぬけて常時 大漁をする船にならしめて 
この時代(昭和28年頃)から牛深の巾着船業界で 父は頭角を現し始めたのだと思います

〔尋常小学校卒業、12歳から船に乗って 牛深の網元親方衆から 認められて18歳で本船の船長、 
22歳から大船頭にスカウトされた父でしたので (須口まるに丸漁労長)巾着船には天性的な感覚才能を持っていたのかもしれません〕

早速 魚を積載する母船は 大きくなければ と思ったのでしょうね
当時 本船より 大きなダンベは いなかったのですが 
鹿児島沖進出への野望もあって 70トンくらいの 母船 第7満吉丸を
八代の加藤造船所というところで 建造しました 私が10歳の時です

この大きな母船が すぐさま進出した鹿児島沖で満船 満載続きで(最大で3000箱積載)大活躍しました
しかし 好事魔多し の例えのごとく
ある晩 荒天の夜 種子島の西之表から 出港中 馬毛島の浅瀬に衝突 座礁して 
他の船で引きおろすことを 試みるものの 荒天時化の中 作業も危険困難で
瀬の上と大波の中 ゴロゴロ転ぶ 第7満吉丸は 船体が割れ始め
瀬と瀬の間にスッポリ挟まるように座礁していたので 離礁させることが無理と判断した父は
船員全員が見守るなか 第7満吉丸に乗り移り 持っていた包丁で 自分の親指の先を切って 
流れる血をオモテ舳先の又十の屋号に塗りつけて この船と別れを告げてきたそうです
其の事故から約60年
現在は 馬毛島に船体はおろか エンジンも波に洗われてしまって残ってないと思います
進水してから僅か3年の活躍運命だった船らしいのですが 父だけの思いの ある船だったのか
思いだしたくないことだったのか
晩年 あまり7号母船のことは 私には話しませんでした


一番上の写真は その第七満吉丸の進水餅投げシーンで 屋号が金エナメルで書いてあろところ
オモテ舳先にいるのが 私と弟です 確か小学4年生頃だと思います

このブログ記事は 決して 自分の父親のことを自慢、自賛するものではなく
当時の船員さんからの話や私が幼い頃 あった話 ありのままを
書いたものです
巾着船で 隆盛をきわめた船であれば どこの船にも 
こういう話の ひとつや二つは あるはずです

大変 長い文章を お読みいただきまして ありがとうございました

 
   


Posted by 波場印  at 17:38Comments(7)巾着船

2016年05月03日

昭和20年代後半


大昔の巾着船の記事が こんなに多くの人から
アクセスいただくとは 思っていませんでした
現在も毎日 各地から閲覧されていていますことに感謝します
(巾着船のカテゴリー アクセスだけで 2万回を突破しました)

今となっては 時系列に書いたらよかったのかもしれませんが
断片的、思い出しのこと ですので 時代 年号が前後して
しまいまして申し訳ありません

上の写真は 父が 初めて建造した初代「第三満吉丸」です (木造船 59トン)
「雇われ船頭」から 独立して 一年目は 確か 柳丸 という中古船を甑島から買ってきて
起業したのは覚えています、
それから 間もなくして 建造したので昭和28年~30年
私が 7歳くらいの時だと思います
オンノイケ(天草 鬼池)の造船所で何という造船所かは知りませんでしたが
当時の エピソードを よく 古い船員さんから聞いてたのを
思い出しました
完工 進水が間近になって 内部艤装の段階で 特別発注してたラット(操舵機)ができあがってきて
ブリッジの中に 入れようとしたら ラットが大きすぎて どこからも 入れられず
完成していたブリッジの天井を 壊して 入れたそうです
今の船のラットは車のハンドルと変わらない 大きさですが 当時は電動油圧などなく
全てチェーン舵だったので 大きいほうが舵効きが よし と考えたのでしょうね 

船体だけ完工進水して 中のエンジン(焼き玉) は牛深の鉄工所での据え付けのため 鬼池から牛深へ回航するのに
ダンベで 曳航して もってくる途中 本渡の現在の瀬戸橋の中央付近で 水深が浅くて
座礁してしまったそうです 海底が砂地だから船底に傷つかなかったのは よかったのかもしれませんが 
どうしても浅場から 降ろすことができなくて 本渡じゅう から 空のドラム缶を集めて 船底に抱くように 
縊りつけて 次の日の満潮にやっと 瀬戸から脱出できたそうです 
冬の寒い時 船員全員が 泳いでの作業だった という話を聞きました

  


Posted by 波場印  at 16:22Comments(8)巾着船

2016年01月07日

数え甚句


一は 一丸 ケンタロどん、
二は にしおか 千力丸、
三は サゴどんの まるさん丸、
四は シカキの たいせい丸、
五は ゴサどんの カイユウ丸 
六は ??の ??丸

?と 以下は思い出せませんが 父の船は覚えていて
十は ジュマンどん の まんきち丸、  でした

これは 私が幼い頃 船の乗り子さん達が言っていた「数え文句」を
最初のほうだけ薄覚えしているのですが
当時(昭和20年代) 牛深に50ヶ統くらいの巾着船がいた時代 
乗り子さんたちが 創作した巾着船の ”数え甚句” だと思います
今 思うと ちゃんと 覚えていればよかったな と思います
もし どなたか 知っておられたら 教えてくだされば幸いです 

以上のように 記憶が曖昧なのですが
当時の乗り子さん達は 沖や網棚で網を引く時は 何かにつけ 
調子のいい 創作歌とか 甚句のようなものを 歌いながら網を引いていたような覚えがあります
力仕事に飽きない為にか? 力が湧き出る為にか?、、、だったのかも知れません

綺麗な創作歌 甚句もありますが 男ばかりの仕事場ですので 
今では公表できなく面白いですが ドギツい妖艶甚句が多かったのは 幼心に薄覚えしてます

幼い頃から こういう環境で育ちましたので
未だに 遠慮会釈ない歳寄りブロガーになってしまったのかもしれません
大変 申し訳ありません
謝りついでに  
二十歳の頃 私の船の中で 教えてもらった 甚句ですが
 「一 たろ、二 きゅじろ、三 きたろ、、四が馬で、 五が かずお、」
乗り子さん達の個人名がでてきたので
「そら 何な?」 と訊いたら
満吉丸の乗り子の中での 下のイチモツの大きい 番付だそうです
「馬よりフトカ 人の三人も おいと?」 私が訊いたら
そこにいたみんなが 「ジャイト、ジャイト」と言って笑っていました

 でてきた4人の個人名様は 父の昔からの子飼い だった人たちで 
今はとっくに この世にいない方々ですので 公表してもいいどころか 
男としては 名前が残るだけでも いいと思います

ヘッシン ヨイサー!
  


Posted by 波場印  at 10:31Comments(38)巾着船

2015年08月26日

昭和40年代の出港日


正直 感服しました
先週 熊日の ”南風吹く港から”の牛深シリーズ
 正に あれが牛深の巾着船の歴史です   
 
過去にも 牛深の漁業史については 地元の人が書いたのを 何度か読んだこともあります
やはり 悲しいかな 狭い田舎ですので  遠慮や偏った内容が視えてくると
冷めたような気になってしまうのが 今までの郷土史への個人感でした
その点 プロ記者の方の目は  別段 誰に拘りもないしマッサラ 
純粋な 客観視(史)です
純粋史実な記事を後世に残してくださって 本当に感謝したいと思いました

  新聞に載せれないような 当時のサイドストーリー、

写真は網の積み込み中 昭和46年頃 巾着船の まさに出港直前の様子です
毎月 旧暦の18日が出航で 次の月の旧暦12日まで 種、屋久沖へ向けての出港です
帰港まで通常24日間くらいは 家の畳の上では寝れません
ですので この日は 「サア! 出港だ 魚獲るぞー」と いきり立って 乗ってる船員ばかりとは限りません

正直 「あ~ 今から20日以上 家に帰れんのか 仕事とはいえ ツラカネ~」と思ってる船員さんが
ほとんどです(注、、  魚場に着いたら そういうことは忘れてしまうそうですが)
ですから 船の艫 船員室寝台は12時間かけての魚場到着までシーンとして静まりかえっているそうです
そして航海中 飯の時 起きて仲のいい船員同士が集まってする話が 月の間 6日間にあった出来事や
 呑みに行った店の話 船員は話し好きが多いので 話題は豊富にあります
 そして 開けっぴろげ オープンです
中には 中年船員さん同士の 「月の間は ヨメゴと何回 キバッタトー?」という ヒヤカシ話にもなります
そりゃ 毎月6日しか家にいないから 高齢な人でも 毎 ”月の間”が新婚さん みたいなもんです
黙って聞いていると 月の間の日数より キバッタ回数の多い船員さんもいます
特に大漁して帰った月の間は 奥さんたちの夜のサービスもいいそうです
そして それに応えて 頑張ったら 次の日の朝は 山芋の摩り下ろしや生卵
 入っている味噌汁の具までが精のつくもの ばかりだそうです
そういう話を 横で黙って聞いていた 日頃おとなしくて物静かな 年長船員さん までが 一言
「アイも シダメ(やり貯め) されろば ヨカばってねぇ~」 と言ったのが実感がこもってたそうです
(方言注釈は しません 解かる人だけ解かってください) 

悪条件の帰港日時
 指折り数えて 屋久島から帰港 今夜から月の間休み
最後の魚場が全船 大体一緒だったので 牛深全部の巻き網船の帰港時間が みんな同じ朝の7時 
子供が日曜日で昼 家にいます
  サアどうするか?
考えることは一緒です  この条件が揃うと
当時 牛深のタクシーと内の原のモーテルは 昼間から大繁盛だったそうです
P.S
101満吉丸の漁労長だった S様 えびす祭り宴会の写真がでてきました



  


Posted by 波場印  at 10:45Comments(12)巾着船

2015年07月10日

瀬戸脇


長手の瀬戸脇にある恵比寿様
同時対比になりますが  その上をハイヤ大橋が 通ってます
数十年ぶりに お神酒でも持って 散歩しながら お参りしてきました
私が小さい頃
父は あまり神様とか 信心深いほうではありませんでしたが
母が神様には信心深いほうだったので よく大漁をお祈りに 一緒にお参りしました

「エベッサマは 耳の遠あらいで ふとか声で言わんにゃ 聞こえられんとぞ」
大きな声で  「トラセテ クレンナァ」(大漁させてください の意味)
自分が恥ずかしいもんだから 私に言わせていました
この神様は
耳が ご不自由なのは 本当かな? と思って さっきネットで調べたら 
確かに そのようなことが書いてありました 
その頃は お参りする人が多く エベッサマのドンバラは いつも口から流れるお神酒で
濡れていました 
石像類は 古くなると 趣ができてきます 
数十年ぶりに近くから見たエベッサマは 昔と変わらない笑顔で お参りさせてくださいました

  


Posted by 波場印  at 17:01Comments(4)巾着船

2015年06月01日

天草市潮深町


二十歳の頃 夏休み 約一ヶ月間 家の船に乗っていった時
屋久島の安房に入港しました 
港の岸壁に 巨大な お菓子(鹿児島銘菓)の広告看板塔が立っています
「ぽんかん最中」 
これを船のデッキで 私の隣にいた 船員が大きな声で
「ぽんかん サイチュウ」と読んだので それが本当かと思いました

家内と 知り合って 最初頃
沖縄の地名って面白いよね
「コザ市」なんてカタカナ文字の市があるんだ と言ったら
アメリカ兵が一番最初 占領した時 本隊に無線で連絡するとき
胡屋(コヤ)の地名を はっきり発音できなかったか? 
無線を聞く側がはっきり聞きとれなかったのか? どちらかで コザになったそうです
現在は「沖縄市」になって コザという 日本で唯一のカタカナ文字の
市名はなくなりましたが アメリカさんが一番多い街だから そのまま
にしていておいても よかったんじゃないか  なんていったら また家内から怒られますかね

牛深だって どうして潮(うしお)から動物の牛になって しまったのでしょうね?
別に牛の名産地でもないのに
大昔の 「潮深」のほうが 地形的にも風景にもマッチするし カッコいいのに、、、、
と子供の頃から思ってます

枕崎の古い飲み屋のママさんから聞いた歌詩(町名が3つ でてきます)
”泊で 泊まって 坊で なにして 何はともあれ 枕が先じゃ” 
ということで枕崎という 地名ができたそうですが 多分 嘘でしょうね

  


Posted by 波場印  at 11:53Comments(12)巾着船

2015年04月26日

牛深 2つの動画

私のVHSテープを整理してたら こんなのが出てきました
昭和50年代の出港風景と 平成初期のハイヤ大橋 工事中の動画です
どちらも テープが劣化して綺麗ではありません





新旧 硬軟 相変わらずコアのないブログですが ペースが上がってしまってますので
暫く 休憩します
コメントは 気がけて開くようにしますので 御遠慮なく お送りください  


Posted by 波場印  at 15:21Comments(12)巾着船

2015年04月03日

64年前の同じ場所


1951年4月8日 (昭和26年)
64年前の スイドン山です
当時の巾着船の乗り子さんたちの花見記念です

父が まだ独立する前 「雇われ船頭」で 大船頭(漁撈長)をしてた時の写真です
前列 真ん中  黒い服で タテ膝に腕を組んでいます
父は1918年生まれですから 33歳の時だと思います
当時の大船頭の役目は 大漁をしなければならない責任もさることながら 何より 人を
まとめ上げるのも重要だった ようです
この写真の一年後くらいに 一緒に写っている人たちを引き連れて 独立したようです

私が5歳の時ですが この中の大部分の人が生涯 父についてきてくださった人が写っていますので
覚えがあります  



私たちの子供の頃 今の牛深公園は スイドン山(水道やま)と呼んでいました
人工的に作られた 貯水池で 桜の名所でしたので 今の季節は花見宴会が盛んでした

64年前の写真の場所は 確かここら辺だろう ということで 写してきましたが 公園を作るときの
大工事で変わっているので はっきりとはわかりません でも何十メートルもは違わないと思います  


Posted by 波場印  at 11:41Comments(10)巾着船

2014年11月15日

試験操業 平成3年3月


試験操業の模様
自分のブログのアクセス数 上位100位 というのをみてみますと
1位から5位までが まき網船のことに関して書いてるのが独占しています  
 昔の牛深の巾着船の事に興味をもっておられる方が多いのが
わかりました     閲覧ありがとうございます

私には 過去をみても せんない事、、、、、と思うのと
観るにしのびなく 自分の人生の中に埋めてしまおうか と思いましたが
人生終盤頃になって 少しは 冷静に思い出として客観視できるようになりました

これは私の代になってからのことです
平成3年(1991年)
 本船(網船)を69トンから さらに大型化して
80トンに乗り換えたとき 牛深の片島近海での試験操業の模様です 
漁撈器機の最終点検目的ですので 魚を取り込むのはありません
網の長さは約1000m  深さは海面から 50m~100m下にいる魚群を捕獲します
  NHKの牛深特派員のかたが写されたのを保管してました(平成3年3月31日 AM5時 牛深出港)
投網から環巻き 揚網まで2時間の作業を短くまとめました


この当時は 牛深にまだ5ヶ統 大中型まき網が稼動していました
当時の最新式装備で 稼動しましたが 漁場枯渇で対象魚の減少、 国内の食文化の変化や輸入魚の増加
による魚価低迷、 労働力の高齢化、 世の中の変化に相応できませんでした

  ”昭和の終わり頃までは大中型、 大型まき網船は全国に約350ヶ統以上いたと思いますが
   現在はその3割位しか残っていないと思います
   現在 まき網船の 稼動している地域をみてみますと  条件として
   自船の船籍基地から 好魚場が近い所 (山陰の境港、千葉の銚子沖、五島の西沖など)
   そして その漁獲物の 巨大消費場が近くにあることろ
   いずれも 船の燃料費にウエイトのかからない地域が 残っているようです ” 
上記の”   ”内は私の私感ですので 間違っていたらすみません

 続きも 少しユーチューブにアップしてます  よろしかったら 観てください
  


Posted by 波場印  at 18:26Comments(18)巾着船

2014年10月27日

ナダナ(網干し場)


ナダナ(網干し場、 網棚、 ナラダ )
昭和20年代
魚網がナイロン、 テトロンなどの化学繊維に変わる前は綿糸でした
綿糸は湿気に弱く 濡れたまま船に積んでいると 腐って強度が弱くなる率が高くなるので  
 本船(網船)は夜 沖で網を海の中に つけたら 朝 沖からそのまま 
網干し場に直行して 網を干しに行かなければなりませんでした
漁労機械もない時代  全て人力で 引っ張り揚げて 網棚いっぱいに
広げて干して 午後 また船に積んで 家に 数時間帰って また沖へ出漁です
凪で豊漁が続く時は 毎日これの繰り返しでした
牛深の巾着網が最盛の頃 牛深の浜という浜 これが いたる所にありました
私の家の船の網干し場はネズン島(写真) 現在の牛島にありました(出の串の先にある離れ島です )


甘えん坊で親父っこだった私は 一時も父と離れるのが嫌で 沖に乗って ついて行くと言って きかなくて
 乗って行ったはいいですが 父の乗っている本船でいくと網干しのため 次の日の夕方まで 家に帰れないので
次第に 沖についていくのを 諦めるようになった という記憶があります
魚を積んだダンベ(運搬船)だと陸続きの港へ持っていくので朝 家に帰れたのですが 子供ですので
 沖で船を乗り移らせるのが危ないので そのまま本船に乗せてたのだと思います
沖で波が荒いと ブリッジ(操舵室)の中から 絶対 外に出ないように言われて 舵を握っている船長の足元で 
ションベンもさせていました  足元ズボンに ひっかかった船長が 
「コドンのと じゃいで 毒はなかどもん」と笑って平気な顔をしてたのも覚えています
いつも 網干しが終わるまで ナダナから魚釣りをしながら作業の終わるのを待ってました 
 それと 足が網棚の竹と竹の間に 入って子供の足では歩きにくかったのを覚えているので 小学校へ入る頃です
以上 昭和30年前半までの話です
昭和30年半ば頃から ナイロン など化学繊維になり網干しをしなくてもいいようになり
当然 網干し場も 必要なくなりました
乗り子さんたちも 楽になったと思います 闇中は船に積んだままでよく 干す必要がないので遠くの魚場まで
行けるようになりました これが巻き網の画期的な革命だったのだと思います

もし 皆様の家庭 ご親族に 80歳以上で若い時 巾着船を経験されたかたが おられましたら お尋ねしてください
「巾着船で何が一番キツカッタナ」?
絶対 毎日の網干し だというのは間違いないはずです


P.S
下の写真は 網仕風景です 綿糸の新網ですので白色です  これを カッチ染め コールタールで染めて使っていました
ナダナ  正式は灘棚(なだ だな)です
当時の干し場大工棟梁の息子さんが教えてくれました
ブリッジの中は 碁盤の目のようなバンコが敷いてあってシッコをしても 下に流れていくようになっていました



  


Posted by 波場印  at 11:06Comments(24)巾着船

2014年09月13日

テレグラフ



昭和30年代(1955年)の船のブリッジから機械室エンジンルームに伝達指令を
出す装置がこれでした(まき網 網船69トン)
前進、後進、エンジン出力、 舵を握る人が これを動かして エンジンルームに
いる機関長に指令を伝えるわけです  
エンジンルームには 取っ手のない同じようなゲージがあって
 自転車のチェーンのようなものと 細いワイヤーで継って 同時に動くようになってます 
それを見て機関長がエンジンを操作していました
  
エンジンの音にかき消されないように 凄く大きな鐘の音が鳴るようにしてあります
 子供の頃 これの音が大好きでした
しかし いつも思ってたのは 機関室にいる人(機関員)の大変さ です
低速エンジンのピストン径が250ミリから300ミリの6気筒エンジンですから 音が
凄い上に 機関長の寝台はエンジン本体から2~3メートルのところにありました
よくこんな所で眠れるな といつも思ってました
 今 考えてみると車のボンネットの中に いるようなものです
機械室の中は想像もできないくらいの高温だったと思います
そんな中で  クラッチの入り切り、 ギアの入れ外し、エンジン 構造が大きいので
大変な仕事だなと いつも思っていました
S40年前半頃から 過給機(ターボ)が着くようになって 中速エンジンで構造も小さく
なり リモコンでブリッジから全てエンジン操作できるようになりました
現在は どんな大きな船でもリモコン操作ですが ブリッジの中、 現代機器の中に混じって
超アナログのこれが装置されてる船をテレビで観ることがあります 
飾り? それとも 万が一のことを想定してなのですかね?
ついでに 牛深の漁師さんは前進のことは「ゴヘイ」 後進は「ゴスタン」と呼びます
ゴヘイは「ゴーアヘッド」  ゴスタンは 「ゴーアスターン」がなまってそうなったんで
しょうね

  


Posted by 波場印  at 11:22Comments(3)巾着船

2014年07月02日

昔の巾着船の 乗り子さん達


- 昭和40年(1965)福岡 徳島造船 進水 第53満吉丸 69トン

もし ○○が海で行方不明になった時は 船から一升瓶をぶら下げて 海に流して
引っ張れば すぐ引っ掛かってきて遺体はあがる、 ××には花札、△△にはエロ写真、

学生の頃 夏休みに帰省した時 船の乗り子さん達の話が面白いので 船に行って
一緒に混じって焼酎飲んだり飯食ったりしてたのですが
「学校で何かスポーツは しよるとか?」
「ウン、 今 スケートが面白かけん 練習しよる」
「あら スポーツじゃなかろもん 遊びやろもん 野球とか剣道とかさい 」

まぁ そんな時代でした
いつものように 7~8人で呑んでる輪の中に 
漁撈長(船の中で一番偉い人 50人のトップ。 貫禄があります)が 
「オイモ カテロ」と入ってきて
「焼酎よか茶ば くれろ」と言ったら 
誰かが家庭で中元にもらった紅茶を船に持ってきてたんでしょうね
コーヒーカップに紅茶ティーパックを添えて漁労長の目の前に置いたら
ティーパックを両手指先で盛んに破ろうとし始めました 破れないので
ウ~ンと言いながら 今度は口にくわえて 歯で破り始めました
私が パックごと湯の中に浸して出汁を飲むもの と教えようとしたら
みんなが 教えるな、教えるな、 と目で合図するので黙ってたら やがて破って
中みを カップの中に入れて ヤカンのお湯を注いで砂糖を入れて飲み始めました 
「こんコーヒーはザラザラしとって うもなかね」と言いながら プッ!プッ!と
溶けない粉を吹き出していました
私は 笑うのを一生懸命こらえていましたが
他のみんなは その場面を横目で見てても 平然として ほかの話をしていて
漁撈長が立ち去った後 みんな ひっくり返って大笑いをしたのですが 
乗り子さん達のチームワークの良さにびっくりしました
でも その中に二人くらい そうして飲むものと まだ知らない船員もいました
すでに知っている船員は 「ソンために ひもの付いといやっかあー」と威張って
教えていました


2号船 第53満吉丸の漁撈長の話です
船員さん達との話は まだまだたくさん 思い出があります
そのうち おいおい書きたいと思います

“若者笑うな いつか来た道、年寄り笑うな いつか行く道” (ガッツ石松)
波場印  


Posted by 波場印  at 09:20Comments(11)巾着船

2014年04月22日

半世紀 前


写真の裏に昭和37年5月と書いてありました
思い返し想像ですが この時 牛深には14、5ヶ統の中小まき網船がいたと思います
単純計算で船の隻数が15×6隻で90隻 船員が15×50名で750名

船員の平均年齢が まだ35歳は超えてなかったと思います

日本は高度成長時代の加速期に突入  私が15歳    父がふと 
「オリンピック景気で若者が都会に流るいね、、 」とつぶやいたのを
覚えています

            波場印  


Posted by 波場印  at 17:31Comments(14)巾着船

2014年04月08日

ハイヤ month


私が小学校 2年か3年の頃 
家が漁師の網元でしたので 恵比寿祭りに乗り子(船員)さんたちが酒盛り歌に歌う
 ハイヤ節を 昼 何となしに真似して口ずさんだら 母親から
「そがんした歌は コドンが歌うもんじゃなかと !」と こっぴどく
叱られたのを覚えています 
子供心に 何でだろ と思ってて 中学の頃になって 何となく解りました
 牛深の遊郭 料亭,の中の歌で 船員さんの中には 家庭を 顧みず 遊女にバカになって
奥さんを泣かせる遊び好きな人もいたんでしょうね
ですから 当時の船員さんたちの奥さんの中には ハイヤ節に嫌悪感を持ってる人
もいたと思います
それが時代が変わって今は文化になってしまって 大人も子供も ハイヤ ハイヤですから 
 私にはチョット 複雑です、、、、、、、、、

が  なんてことは言ってられません 商売ですから
この日ばかりは 正月5日くらいには 予約で埋まってしまいます


私どものホテル ハイヤ祭りの日の ご予約は その年の正月開けから受け付けてます
 よく ハイヤに来られたお客様で 来年も来るから と予約を希望なさる方も
いらっしゃいますが 一年先で 予約を忘れられたり キャンセルを忘れられたりする
お客様が 多くいらっしゃいますので このようにさせて頂いております
どうか ご理解 賜りますようにお願い致します

波場印  


Posted by 波場印  at 13:18Comments(6)巾着船

2014年01月24日

まき網船 最終章



究極のまき網船
これが海外まき網船といって 究極に発達した まき網船です
日本に30数ヶ統いると思います (450トン~700トン)
漁法は 沿岸の小型まき網や日本の中近海を操業する まき網船と全く同じです
 まき網漁業の弱点を うまくクリアしてます
作業船(レッコー船)を船尾に搭載して 捕獲した魚も自船に積載して
総員20名前後の乗組員で いわば オール イン ワン というやつです
公海上でカツオ マグロを漁獲対象に操業しますが まき網船は大小に限らず昔から
嫌われ者の代表格ですので 資源枯渇の世論や
マグロ延縄漁船、カツオ一本釣り船を刺激しないように許認可は農水省で
コントロールされてるんでしょうね 

しかし 台湾資本の海外まき網船などは増加する一方のようです

波場印  
タグ :牛深


Posted by 波場印  at 07:52Comments(22)巾着船

2014年01月20日

まき網船 ③



平成元年から平成10年にかけ10年間で急激に衰退していった 牛深のまき網船団
の話ですが 
まき網船の特徴は 攻撃的な漁法にあります
大敷定置網のように 一定の所に網を仕掛けて魚が回遊してくるのを待つ というのではなく
5隻の船で魚群を探し回って 探し当てたら それこそ一網打尽に捕獲するわけですから
時期などを図って いろいろな場所に移動できるのが まき網漁業の有利性です、  
 が反対に2、3日 長い時は一週間位魚群に当たらず 5隻の船で漁場から漁場を走り回って
探索だけの日が続く時もあります 間に時化の日も挟んだら10日間水揚げゼロ
ということもあります まさにハイ リスク ハイリターンの最たる漁業です 
 それは まき網魚業の宿命と覚悟はしなければなりませんが その経費たるものは
膨大です その為 会社側は相応の経済体力がなければなりません

そのうち昭和60年代 種子島 屋久島近海も獲り尽くしたのが原因かどうかわかりませんが 
魚影が薄くなり漁獲高が少しずつ減少し始めました 
しかし 各船団は漁獲高競争のため大規模な装備船になってしまってまして 
船の維持管理費 燃料代の暴騰などで操業コストが上がってしまってました
丁度 恐竜が氷河期に入って 食料が少なくなった状態だと思います

当然 船員さんたちの実入りも少なくなりますから
それに伴っての労働力不足も発生してきます 
牛深のまき網の場合 ひと闇 約24日航海で種子島 屋久島沖を操業するわけですから
月の間の6日間を除いて 家には帰れません そして西日本のまき網は捕獲する
対象魚の特質上 夜間操業です 陸の仕事からしたら相当の不利があるわけですので
それ相応の実入りがなければ まき網船員にはなりません

経費縮小のため 各船団申し合わせで6隻編成の 1隻灯船を減船したり
省人化に結びつく器機なども装備しましたが まき網の場合 複船操業ですので
絶対必要人員というのがあります

魚価の低迷なども重なって 自然衰退という形になり 私の船も含めて平成5年
から平成15年の間に 牛深の大中型まき網船は 一ヶ統もいなくなってしまいました

波場印  


Posted by 波場印  at 14:33Comments(15)巾着船

2014年01月19日

まき網船 ②



牛深の大中型まき網船に限って 書きますと
昭和30年代前半の頃から 牛深沖の魚資源に陰りが見え始め 
自然淘汰の中で生き残った船団は新しい漁場を開拓しなければならない情况になり 
ある船は装備を大型化して中国大陸の東シナ海へ出漁する船もでてきました

私の父の船は 当時未開拓 漁場だった鹿児島県海域の許可を譲り受け
 種子島 屋久島に漁場を求めて 出漁しました
牛深沖のイワシの減少と反比例して 鹿児島県沖のムロアジ 鯖 アジ漁場は
未開発の漁場ばかりでしたので その事が幸いして 豊漁の連続だったのでしょうね
しかも イワシと違って値段の高いムロ 鯖種でしたので 水揚げ高も飛躍的に延びた
のだと思います
その後 他の船団も追従して鹿児島県沖が主な漁場になりました
昭和40年頃からは 長崎船籍のまき網船団も参入して 鹿児島県沖は 一大活況の
時代に入りました
当時 牛深の船団は7ヶ統が鹿児島県沖を主漁場にしていまして
主な水揚げ港は枕崎、串木野 阿久根 が主でした 
大漁続きで 漁箱不足とか製氷不足とかもこの時代でした
牛深のまき網船の20年代がピークの一回目だとしたら 40年代は2回目の
ピークだったのかもしれません

その間 屋久新曽根、内之浦沖という 好漁場も発見され
オイルショックの波にも もちこたえる事ができました

50年代に入り バブルの前兆で アジの値段などトロ箱ひと箱(15キロ)
で1万円以上する時代になり 獲る船は ひと晩に5千万円を揚げる船もめずらしく
ありませんでした 
当然 各船団の間の 漁獲高競争も熾烈を極め 競争に勝つためには いい船を使い
ハイテクな魚群探索装置を他船団より 少しでも早く装備しなくてはなりません
当時 一台1800万円代のソナーが飛ぶように売れていました
まき網船の場合 一ヶ統5隻の船がいたら5隻で探索活動をするので 極端に
したら全隻の船に装備しなければなりません
牛深のまき網本船の建造ブームもこの頃昭和50年でした
当時 本船1隻がフル装備で一億二千万円だったのを覚えています

当時の船員さんとの給料取り決めは 固定給の他 歩合給でした
船主側も 利益が上がりすぎて税金で持っていかれるより 船員に還付したほうが
いいとの思いでしたので 当時の船員さんも 相当な高収入だったと思います

次回は衰退していった 年代などを 書きたいと思います
最後まで お読みくださいまして 有難うございます。



波場印


  
タグ :牛深


Posted by 波場印  at 10:25Comments(11)巾着船

2014年01月16日

まき網船 ①

まき網漁業


旋網漁業
思い返しても何にもならないのですが
牛深の漁業史に もし興味のあられる方が いらっしゃいましたらと思い
 牛深の まき網漁業の近代史について 私が知ってる限りと 経験したことを
含めまして 少しずつ お話したいと思います
最初に説明しなくてはならないのが
まき網魚業は複船操業といいまして 本船(網船80トン)) 灯船(44t)が3隻
運搬船(120t前後)が2隻 合計6隻の船団で一ヶ統を形成しています
魚群を 集める船 網を投網する船 獲った魚を港に運ぶ船 一船団総乗組員約50名
で操業する漁業です 
カツオ マグロ船のように 1隻で操業するものは 単船操業船といいます
東日本大震災の時 気仙沼の陸に打ち上がったままになってるのが
まき網船の運搬船 (18共徳丸 330t)の1隻です

昭和21年から30年代前半までの
牛深のイワシ アジ 鯖 を漁獲対象とした まき網船は 戦後 日本の
中央都市部の食料不足なども相まって 獲っても 獲っても 需要があって
 漁獲生産が追いつかない 状態でしたので 空前の好景気だったのでしょうね
それに付随した 水産加工場(ナヤ)の発展なども 活発になって 牛深は
日本でも有数な漁獲物生産の主要基地になりました と思います



昭和45年
私が牛深に帰ってきて 最初に帳簿を付けた時の燃料 A重油の値段がリッターの
15円位で ひと闇(一ヶ月)約25万リッター使ってましたので 燃料代は
400万円前後でした それでも ひと闇の水揚げ高が2000万円から4000万円の
水揚げ高でしたので 当時 さして気になる様な数字金額ではありませんでした

現在 調べたことはないのですが おそらくA重油の値段は6~7倍になってると
思いますし
使用する船のエンジン馬力も当時からすると相当な大馬力になってると思いますので
一ヶ月に消費するA重油の量は2~3倍になってると思います
設備投資の拡大や 操業経費の肥大に伴って 魚価が比例して伴えばいいのですが
国内の食環境の変化や 輸入魚の影響もあって 魚価は上がるどころか昭和40年代
そのままです
(当時の漁業関係の人たちには まさか あじ 鯖が 北欧 あたりから輸入できる
ほどの冷凍技術が発達するとは思わなかったのでしょうね)

その結果 いま問題の尖閣諸島,魚釣島を主漁場としていた長崎五島の大型東海船
(135t)も衰退してしまいました
現在ももちろん 九州西沖 山陰、三陸漁場を主とした大型まき網船も稼働してますが 
 資本力のある大規模な魚業会社は まき網許可を ひとつにまとめて
米式まき網で カツオ マグロを 単船操業で採ってます

注釈 
網船本船39t以上の網船まき網船は 農林水産省の国の許認可魚業です
20t未満の小型沿岸まき網船は県知事許可でその県に応じた統数で許可されてます、
現在 こちらの方が 小規模で健全経営をしている魚業会社もあります

今の 日本の港 水産物 水揚げ高 一位は焼津でも銚子でもありません 成田空港です
ですから 水産関係のかたは 成田漁港と言います

まき網船のことについては 書ききれないほどの 思いがありまして
まとまりが尽きません

また 思い出したら おいおい書きたいと思います、
  
波場印
  
タグ :牛深巾着船


Posted by 波場印  at 17:04Comments(32)巾着船