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2014年01月16日
まき網船 ①
旋網漁業
思い返しても何にもならないのですが
牛深の漁業史に もし興味のあられる方が いらっしゃいましたらと思い
牛深の まき網漁業の近代史について 私が知ってる限りと 経験したことを
含めまして 少しずつ お話したいと思います
最初に説明しなくてはならないのが
まき網魚業は複船操業といいまして 本船(網船80トン)) 灯船(44t)が3隻
運搬船(120t前後)が2隻 合計6隻の船団で一ヶ統を形成しています
魚群を 集める船 網を投網する船 獲った魚を港に運ぶ船 一船団総乗組員約50名
で操業する漁業です
カツオ マグロ船のように 1隻で操業するものは 単船操業船といいます
東日本大震災の時 気仙沼の陸に打ち上がったままになってるのが
まき網船の運搬船 (18共徳丸 330t)の1隻です
昭和21年から30年代前半までの
牛深のイワシ アジ 鯖 を漁獲対象とした まき網船は 戦後 日本の
中央都市部の食料不足なども相まって 獲っても 獲っても 需要があって
漁獲生産が追いつかない 状態でしたので 空前の好景気だったのでしょうね
それに付随した 水産加工場(ナヤ)の発展なども 活発になって 牛深は
日本でも有数な漁獲物生産の主要基地になりました と思います
昭和45年
私が牛深に帰ってきて 最初に帳簿を付けた時の燃料 A重油の値段がリッターの
15円位で ひと闇(一ヶ月)約25万リッター使ってましたので 燃料代は
400万円前後でした それでも ひと闇の水揚げ高が2000万円から4000万円の
水揚げ高でしたので 当時 さして気になる様な数字金額ではありませんでした
現在 調べたことはないのですが おそらくA重油の値段は6~7倍になってると
思いますし
使用する船のエンジン馬力も当時からすると相当な大馬力になってると思いますので
一ヶ月に消費するA重油の量は2~3倍になってると思います
設備投資の拡大や 操業経費の肥大に伴って 魚価が比例して伴えばいいのですが
国内の食環境の変化や 輸入魚の影響もあって 魚価は上がるどころか昭和40年代
そのままです
(当時の漁業関係の人たちには まさか あじ 鯖が 北欧 あたりから輸入できる
ほどの冷凍技術が発達するとは思わなかったのでしょうね)
その結果 いま問題の尖閣諸島,魚釣島を主漁場としていた長崎五島の大型東海船
(135t)も衰退してしまいました
現在ももちろん 九州西沖 山陰、三陸漁場を主とした大型まき網船も稼働してますが
資本力のある大規模な魚業会社は まき網許可を ひとつにまとめて
米式まき網で カツオ マグロを 単船操業で採ってます
注釈
網船本船39t以上の網船まき網船は 農林水産省の国の許認可魚業です
20t未満の小型沿岸まき網船は県知事許可でその県に応じた統数で許可されてます、
現在 こちらの方が 小規模で健全経営をしている魚業会社もあります
今の 日本の港 水産物 水揚げ高 一位は焼津でも銚子でもありません 成田空港です
ですから 水産関係のかたは 成田漁港と言います
まき網船のことについては 書ききれないほどの 思いがありまして
まとまりが尽きません
また 思い出したら おいおい書きたいと思います、
波場印
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いろいろ興味あることばかりです
発祥の地はわが冨岡の地で鮫島十内さんが考え出したと
聞いております
我が家も網元でしたから 子供のころから網の扱い方とか
教えられましたよ
あの頃牛深の平安丸(小豆屋さんかな)の船を買って片手巾着に大改造したことを思い出します
冨岡も19トン型が5ヶ統あったのですが みな廃業しましたよ
ちなみに写真は満吉丸さんのようですね
写真は 長造で昭和51年建造しました 第三満吉丸です、
大漁丸さんは 名漁労長だったのではないですか
昔の漁労長が今も 私の所に遊びに来るのですが
夢の寝言で デッコー! と言う時があるそうです(笑)
ちなみに 大漁丸さんは マルショウの小菅さんと同級生ですか?
私は高校は違うのですが
小菅さんが下宿されていたところは 私の嫁の親戚だったとうかがっております
マルショウマルさんのことは いろいろ話は聞いておりますよ
もう昔のことですが。
養殖もやっていたのでトラックで小倉まで 日に2回運んだ思い出があります
平安丸さんも今は養殖だけですね
平安丸のチトさんには 私も可愛がっていただきました
今は 息子さんが養殖とフィーレ事業で頑張っていらっしゃるみたいです
大漁丸さんのブログ 見たりしていると 昔は素晴らしい船主漁労長
だったんだろうなー と感じます、
ブログ コメントありがとうございます
私も 昭和46年頃 初めて 五島や舘浦漁港 へ行きました、 特に奈良尾の巻き網船団を初めて見たとき 船舶や装備は日本一 というより世界一と感じました(実際 そうだったと思います)
私たちが 一般に マメキン といっている超小型まき網船なのでしょうね
船が小さいので遠くまで行けないのと 時化を嫌うのだけが 不利でしょうが
少人数 小経費で経営効率が いい会社もあると思います、
熊本県の19トン未満のまき網船は 不知火海を操業する船と 天草灘を操業する船とに 許可が分かれていると思います
最近の漁業事情に詳しくないのでわかりませんが まき網船の原点でしょうね
アクセスしていただいてまして有難うございます、
10tクラスの小型まき網を稼働されているところは 養殖や加工業も稼働して おられるところが多いと思いますので 自社での加工原料の調達を兼ねて やっておられるかもしれません、 時々 鮮魚向きで値段の高い魚が 捕れた時や 自社でさばけないくらいくらいに大漁した時は 市場(漁協)に持っていく という方法で経営されているのかもしれません
漁業を離れてから長いこと経ってますので 現況のことは あまりわかりません 間違ってたらすみません
とにかく 昔は巾着船をしているところは ナヤもやっていました、私の家も
ナヤもしていました
(続き)
ですので もちろん あの当時も牛深の漁協に水揚げにくる 内海の小型船もいたと思います
牛深には 優秀な加工業者さん達が揃っていて それだけ付加価値をつけて
くださるので 牛深漁協でのタレなどの値段がいいのでしょうね、喜ばしい
ことだと思います 漁協は地元船だけでなく 他の地域からの水揚げ船を誘致するのに 加工業者さん達と一緒に努力している 証だと思います
懐かしさを 感じていただきまして有難うございます、
昔の巾着船のこと また思い出したらブログアップしたいと思いますので
よろしく お願いします
当時の私の家のナヤは 現 N船具さんの隣になります
ナヤは 私の中学の時くらいまで やってました、ナヤを止めた後は漁具倉庫 でした その写真観てみたいですね、
私の子供の頃(昭和20年~32、3年)は長手 海岸線 一帯はほとんどナヤだったんですよ
お知らせくださいまして 有難うございます、
機会があったら是非観てみたい と思います
私の自宅から2~3メートル先は海だったんですよ
小型巾着船はどうしても 冬は時化が多いので 3~4月頃からが本番になると思います ですから エンジン故障などで休むことのないように 万全の
対策なのでしょうね
獲ったばかりのタレの刺身は美味いですが 人によっては これでアタッテ苦しい思いをする人もいます 用心してください
さだかではありませんが 春の内海のタレは フグの卵を食べているから
アタルという人もいます 体調の悪い時は用心してください、
水産加工場を(ナヤ)という書き込み方…可愛らしいですね(笑)
ありがとうございます、
加工場の最高責任者のことを「ナヤドロ」と言っていたのですが
多分 ナヤ頭領が訛って そう呼んでいたのでしょうね
あっ!やっぱりそうだったんですね!昔、私の友人にナヤの息子がおりまして、元満吉丸の船長Yさんが「おぅナヤドロ~っ」といってせぶらかしていました(笑)ところが友人は「Yさん、あんましナヤナヤっていわんでよ~っ友達からナヤの匂い臭か~ってからかわるいで~っ」といってました(笑)しかしYさんは「馬鹿よい、昔はナヤんしは半年気張れば、一年遊んで暮らせるジェン(銭)ばもっとらったとばぁ~っ」って言ってたのを覚えています!牛深ではYさんが言ってたようにナヤドロって言葉があったんですね(嘘ではなかったんだ!)