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2015年08月26日

昭和40年代の出港日

昭和40年代の出港日
正直 感服しました
先週 熊日の ”南風吹く港から”の牛深シリーズ
 正に あれが牛深の巾着船の歴史です   
 
過去にも 牛深の漁業史については 地元の人が書いたのを 何度か読んだこともあります
やはり 悲しいかな 狭い田舎ですので  遠慮や偏った内容が視えてくると
冷めたような気になってしまうのが 今までの郷土史への個人感でした
その点 プロ記者の方の目は  別段 誰に拘りもないしマッサラ 
純粋な 客観視(史)です
純粋史実な記事を後世に残してくださって 本当に感謝したいと思いました

  新聞に載せれないような 当時のサイドストーリー、

写真は網の積み込み中 昭和46年頃 巾着船の まさに出港直前の様子です
毎月 旧暦の18日が出航で 次の月の旧暦12日まで 種、屋久沖へ向けての出港です
帰港まで通常24日間くらいは 家の畳の上では寝れません
ですので この日は 「サア! 出港だ 魚獲るぞー」と いきり立って 乗ってる船員ばかりとは限りません

正直 「あ~ 今から20日以上 家に帰れんのか 仕事とはいえ ツラカネ~」と思ってる船員さんが
ほとんどです(注、、  魚場に着いたら そういうことは忘れてしまうそうですが)
ですから 船の艫 船員室寝台は12時間かけての魚場到着までシーンとして静まりかえっているそうです
そして航海中 飯の時 起きて仲のいい船員同士が集まってする話が 月の間 6日間にあった出来事や
 呑みに行った店の話 船員は話し好きが多いので 話題は豊富にあります
 そして 開けっぴろげ オープンです
中には 中年船員さん同士の 「月の間は ヨメゴと何回 キバッタトー?」という ヒヤカシ話にもなります
そりゃ 毎月6日しか家にいないから 高齢な人でも 毎 ”月の間”が新婚さん みたいなもんです
黙って聞いていると 月の間の日数より キバッタ回数の多い船員さんもいます
特に大漁して帰った月の間は 奥さんたちの夜のサービスもいいそうです
そして それに応えて 頑張ったら 次の日の朝は 山芋の摩り下ろしや生卵
 入っている味噌汁の具までが精のつくもの ばかりだそうです
そういう話を 横で黙って聞いていた 日頃おとなしくて物静かな 年長船員さん までが 一言
「アイも シダメ(やり貯め) されろば ヨカばってねぇ~」 と言ったのが実感がこもってたそうです
(方言注釈は しません 解かる人だけ解かってください) 

悪条件の帰港日時
 指折り数えて 屋久島から帰港 今夜から月の間休み
最後の魚場が全船 大体一緒だったので 牛深全部の巻き網船の帰港時間が みんな同じ朝の7時 
子供が日曜日で昼 家にいます
  サアどうするか?
考えることは一緒です  この条件が揃うと
当時 牛深のタクシーと内の原のモーテルは 昼間から大繁盛だったそうです
P.S
101満吉丸の漁労長だった S様 えびす祭り宴会の写真がでてきました
昭和40年代の出港日





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Posted by 波場印  at 10:45 │Comments(12)巾着船

COMMENT
そうだったんですね(笑)
元気の源は家族!その中でも嫁さんの務めは絶対♡
楽しいお話、この話が通じる私は若くないですね(;一_一)
Posted by あひるちゃんあひるちゃん at 2015年08月26日 11:01
あひるちゃん様
ハイ、絶対 確実に 歳をとってきてます、
Posted by 波場印波場印 at 2015年08月26日 11:14
鯨道 様
昭和45年頃 山陰の 若葉丸 という船を買ってつかいました
69.5トンでした 第101号です、よく大漁しましたよ
Posted by 波場印波場印 at 2016年01月12日 13:04
天草灘(海王) 様
私が牛深へ帰って来たばかりの頃で 父が境港から買ってきた本船です
隣に輪島丸とか蛸島丸がいた というのを覚えています、
中型船が59トンから69トンに許可になった当時です
その当時 2ヶ統だしていて 徳造で 69トンを造ったばかりなので 
一統は中古で操業しました 博多ドック建造の船でした
Posted by 波場印 at 2016年02月10日 06:20
海は広いですが巻き網の世間はせまいですね!!まさか、第百一満吉丸がわかば丸のおさがりだったとは思いませんでした、過去に牛深昭徳丸が石田丸の中古船だったことも波場様からコメントいただいて初めてしりましたし、波場様は、営業、水揚げの立ち会い、中古船の買い付け、船の進水、ドックイン…いろんな港に行ってらっしゃいますね!全盛期の満吉丸船団は、第三満吉丸船団と第百一満吉丸の2ケ統経営だったのですね!その頃牛深では最大規模だったでしょうね!
Posted by 天草灘(海王) at 2016年02月10日 20:06
海王 様
現在の海巻きの わかば丸の前身かどうか解かりませんが 漢字の
若葉丸でした 山陰は好漁場が港の近くにあるので 鹿児島より 発達
しましたね 一度くらいマグロの水揚げなんて経験してみたかったですね(笑)
Posted by 波場印 at 2016年02月11日 07:16
明日は牛深の町で海賊祭りがあるらしいですが、そんな祭りがあったとははじめて知りました、ところで現在のかせんなの恵比須様の祭りはまだやってるんですか?昔は恵比須様の日はかせんなの同級生らは親父が巾着から戻ってきて小遣い銭もろて喜んでましたがね!ちなみに上の写真の右側の人も祭りで喜んでいる笑顔ですね(笑)
Posted by 北風節 at 2016年02月20日 19:51
北風節 様
コメント有難うございます、
海族祭は7~8年前から やってまして 人気がありますよ 
牛深の美味しいもの どうぞ食べに来てください
恵比寿祭りは 今は 船津郷の一本釣りの漁師さんたちが
もちまわりでやってるみたいですよ
Posted by 波場印 at 2016年02月21日 09:52
ハーバーイン様の巻き網史のほうが地元の郷土史家よりも真実と思います!網元をやってらした方や乗組員を経験して戦後の鰯の大漁時代から平成まで生き残ってきた牛深の巻き網漁師こそ昔のことをわかっていると私は思います!昭和14、5年生まれで中卒でカシキから巾着を経験した方なら昔の木造船の焼き玉エンジンの時代や沢山群雄割拠していた巻き網群を覚えていると思うんです、牛深カメラの吉川様の巻き網写真は本当に当時を物語っております!しかし呆郷土史家の資料を本人から直接購入しましたが、昭和24年~昭和27頃の巻き網漁船一覧全50ケ統、船名、船主、漁労長名が記されておりましたが、私の身内の名前が記されてませんでした!!私の身内(祖母の兄)は雇われ漁労長でしたが船名は記されてましたが漁労長名が違う人だったんです、祖母に懐かしんでもらうために購入したのですがショックでした…祖母は昔話をするときは「おいのあぼさんは漁労長ばしよらったと」とよく私に言い聞かせていました、私は心のなかで「ハッタリやろもん」と思ってましたがじつは20年前名前はいいませんが満吉丸のOBの方が私の祖母の兄のことを知っとられました!!間違いなく嘘ではありませんでした、祖母の弟は境港で大型巻き網に乗ってましたし(現在船員保険の年金生活)この郷土史家が記された史実は半分創作ではないのか?と思いました、確かにその満吉丸OBの方は祖母の兄の弟子のことも知っており、その弟子の方は後19トンの漁栄丸に乗っておられたことは私も覚えております!しかし呆郷土史家の本には良栄丸も記されていませんでした、郷土史家よりも巾着を経験した人や経営された方のほうが過去の思い出は覚えていると思います!
Posted by 牛若丸 at 2016年03月02日 22:37
牛若丸 様
コメント ありがとうございます、
私も自分が生まれて物心着くまでの、昔の牛深の 漁業全般史については 
全く無知です 私が知ってるのは幼い頃 父や 周りの人から聞いた
断片的な事を繋ぎ合わせた話です それも巾着船に限ったことと
後は 自分で経営経験したことを 自分なりの目線で書きました
ですので 自分の身の回りの事だけですので 郷土史家様たちからみたら
全く違う見解になるかもしれません
いずれにしても 歴史というのは フェアーであるべきことでも
伝える歴史家の人たちの 偏見とまではいいませんが私見がはいってしまいがちになります
特に地元の郷土歴史家様たちになると その様な傾向が強くなってしいがちですよね
仕方のないこと と言ってしまえばそれまでですが
後の人が それが史実と思いこんで 全てを解かり切ってしっまったように
なるのが ちょっと嫌ですね(笑)

尚、私のブログは 歴史ではありません あくまで私の幼少時代の思い出や
経験したことを書いている だけですので 歴史という おおげさな
観点からは診られない様にお願いします
また 巾着船のブログ 思い出したら 書きますので コメントお待ちします
Posted by 波場印波場印 at 2016年03月03日 10:04
私は牛深を色に例えると黄色と青色というイメージだったんです!藍より青くのイメージで牛深は青いと表現する人が多いと思いますが、私は昭和58年当時10才でしたがAコープの近くにいくと 船の色が青くてブリッチの色が黄色の船がコープ岩壁から真浦辺りまで巨大な巾着船がズラリとならんでたのを覚えています!当時寿屋が商売繁盛して人が沢山あるいて活気がありましたよね!私は寿屋の向かいのパン屋でよくフィッシュバーガーを食べてました(笑)高校生になって瀬崎の喫茶店にも行ってましたkageという喫茶店で海のながめがよくて最高でした!!しかし平成になりハイヤ大橋が開通して海さい館が出来て喫茶店のkageからのロマンチックなながめが海さい館が邪魔して見えなくなりました、それから次々と巾着船が辞めて行き…段々沢山の商店が店を閉めてしまい… 多くの若い人が就職で牛深を去って行きました、港の護岸工事でたしかに牛深港は綺麗になりましたがあの巨大な巾着はいなくなり、今現在港は養殖の餌船と棒受網船と遊び船だけになって凄く寂しくなりました…私にとって牛深の色は黄色と青でしたが…いまの牛深の色は白と青というイメージになりました牛深の夜もにぎやかだったのに今は昼間も誰も歩かなくなり凄くさみしいですね!この先牛深はどうなるのか不安です、牛深活性化の為の映画も見ましたがあのコメディドラマは凄くしらけました、それより尾道出身の映画監督の大林宣彦さんを呼んで感動的な漁師の物語なんかを作成してほしかったです、徹丸が今も頑張って漁をやってるから ハナミズキみたいな牛深の若い漁師の男性と恋人の素晴らしい作品をつくってほしかったです!
Posted by ポセイドン at 2016年03月14日 23:31
ポセイドン 様
時代の流れでしょうか 牛深の港風景も 大分 変わりましたね、
ポセイドン様が しらけた映画 私も同感でした、なんていったら叱られますかね(笑)
Posted by 波場印波場印 at 2016年03月15日 10:22
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