2016年07月09日

第七満吉丸物語(昭和30年頃)


第7満吉丸物語
前回の巾着船ブログ(5月)で紹介した父が最初に造った本船(初代 3満吉丸)は
稼動して いきなり 牛深 片島沖で  
当時 開発されたばかりの魚群探知機で米粒くらいの魚群反応だったのらしいのですが 
操業したところ それが奇跡的というべきか 偶然にも 真鯛の大魚群で
ダンベ1隻、デッコウダンベ、にも満載しても積みきれず 本船にも積んで
出だしから 真鯛を”本船積み”という 前代未聞の大漁をしました
今の私の想像ですが 当時の運搬船(ダンベ)がデッコダンベと合わせて約1500箱積載(一箱15㌔入り)
本船の甲板に100箱積載   合計1600箱(㎏で換算して24トン)
1匹 2キロ平均の鯛だと ひとつのトロ箱に5~6尾入ったとして 1600箱ですので
   約8000尾
の鯛を一晩に獲って とにかく 現在の金額に換算すると
想像できないくらいの 水揚げ金額を記録したと思います

父が幸運の持ち主だったか この本船に運があったのか 船主船頭ナッパ服親方として 
牛深でも飛びぬけて常時 大漁をする船にならしめて 
この時代(昭和28年頃)から牛深の巾着船業界で 父は頭角を現し始めたのだと思います

〔尋常小学校卒業、12歳から船に乗って 牛深の網元親方衆から 認められて18歳で本船の船長、 
22歳から大船頭にスカウトされた父でしたので (須口まるに丸漁労長)巾着船には天性的な感覚才能を持っていたのかもしれません〕

早速 魚を積載する母船は 大きくなければ と思ったのでしょうね
当時 本船より 大きなダンベは いなかったのですが 
鹿児島沖進出への野望もあって 70トンくらいの 母船 第7満吉丸を
八代の加藤造船所というところで 建造しました 私が10歳の時です

この大きな母船が すぐさま進出した鹿児島沖で満船 満載続きで(最大で3000箱積載)大活躍しました
しかし 好事魔多し の例えのごとく
ある晩 荒天の夜 種子島の西之表から 出港中 馬毛島の浅瀬に衝突 座礁して 
他の船で引きおろすことを 試みるものの 荒天時化の中 作業も危険困難で
瀬の上と大波の中 ゴロゴロ転ぶ 第7満吉丸は 船体が割れ始め
瀬と瀬の間にスッポリ挟まるように座礁していたので 離礁させることが無理と判断した父は
船員全員が見守るなか 第7満吉丸に乗り移り 持っていた包丁で 自分の親指の先を切って 
流れる血をオモテ舳先の又十の屋号に塗りつけて この船と別れを告げてきたそうです
其の事故から約60年
現在は 馬毛島に船体はおろか エンジンも波に洗われてしまって残ってないと思います
進水してから僅か3年の活躍運命だった船らしいのですが 父だけの思いの ある船だったのか
思いだしたくないことだったのか
晩年 あまり7号母船のことは 私には話しませんでした


一番上の写真は その第七満吉丸の進水餅投げシーンで 屋号が金エナメルで書いてあろところ
オモテ舳先にいるのが 私と弟です 確か小学4年生頃だと思います

このブログ記事は 決して 自分の父親のことを自慢、自賛するものではなく
当時の船員さんからの話や私が幼い頃 あった話 ありのままを
書いたものです
巾着船で 隆盛をきわめた船であれば どこの船にも 
こういう話の ひとつや二つは あるはずです

大変 長い文章を お読みいただきまして ありがとうございました

 
   


Posted by 波場印  at 17:38Comments(7)巾着船