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2014年07月02日
昔の巾着船の 乗り子さん達
- 昭和40年(1965)福岡 徳島造船 進水 第53満吉丸 69トン
もし ○○が海で行方不明になった時は 船から一升瓶をぶら下げて 海に流して
引っ張れば すぐ引っ掛かってきて遺体はあがる、 ××には花札、△△にはエロ写真、
学生の頃 夏休みに帰省した時 船の乗り子さん達の話が面白いので 船に行って
一緒に混じって焼酎飲んだり飯食ったりしてたのですが
「学校で何かスポーツは しよるとか?」
「ウン、 今 スケートが面白かけん 練習しよる」
「あら スポーツじゃなかろもん 遊びやろもん 野球とか剣道とかさい 」
まぁ そんな時代でした
いつものように 7~8人で呑んでる輪の中に
漁撈長(船の中で一番偉い人 50人のトップ。 貫禄があります)が
「オイモ カテロ」と入ってきて
「焼酎よか茶ば くれろ」と言ったら
誰かが家庭で中元にもらった紅茶を船に持ってきてたんでしょうね
コーヒーカップに紅茶ティーパックを添えて漁労長の目の前に置いたら
ティーパックを両手指先で盛んに破ろうとし始めました 破れないので
ウ~ンと言いながら 今度は口にくわえて 歯で破り始めました
私が パックごと湯の中に浸して出汁を飲むもの と教えようとしたら
みんなが 教えるな、教えるな、 と目で合図するので黙ってたら やがて破って
中みを カップの中に入れて ヤカンのお湯を注いで砂糖を入れて飲み始めました
「こんコーヒーはザラザラしとって うもなかね」と言いながら プッ!プッ!と
溶けない粉を吹き出していました
私は 笑うのを一生懸命こらえていましたが
他のみんなは その場面を横目で見てても 平然として ほかの話をしていて
漁撈長が立ち去った後 みんな ひっくり返って大笑いをしたのですが
乗り子さん達のチームワークの良さにびっくりしました
でも その中に二人くらい そうして飲むものと まだ知らない船員もいました
すでに知っている船員は 「ソンために ひもの付いといやっかあー」と威張って
教えていました
2号船 第53満吉丸の漁撈長の話です
船員さん達との話は まだまだたくさん 思い出があります
そのうち おいおい書きたいと思います
“若者笑うな いつか来た道、年寄り笑うな いつか行く道” (ガッツ石松)
波場印
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誤解のないように 付け加えますが 決して家庭が貧しくて
テイーパックを知らない訳ではなかったんですよ
当時 船にテレビもなく 船に乗ったら陸の事など全く分からず
陸のことにはカッパ同然の人が多かったんす
素朴で いい時代でした
牛深は昭和43年頃から 漁労機器が油圧駆動になったと思います
この写真 舳のマストにパーブロック(網さばき機)はついてますが
サイドローラーはまだついてないようです 赤ムロが たまった時は 締めつけ困難したでしょうね
昭和40年頃だと思いますが 御所浦には 牛深の船と同型59トンの旋網が2ヶ統 いたと思います 父が どちらの船主さんとも 付き合いでしたので覚えています
ありがとうございます、
昭和50年から3年間 2ヶ統経営で 1ヶ統は 五島の漁労長 船員さんたちで 西沖を操業しました 基地は 一年目は 若松の瀬戸 ナマ というところでした 2年目は 上五島の新魚目でした その時 五島の船員さんたち
うちの船でキバって頂いた方たち が懐かしいです
恵比寿様の石碑は あれが作られたとき 漁協の専務を勤めていたので
彫ってあるのだと思います
西沖は白瀬沖 だけでした 装備の違う大型船に混じってでしたので あまりいい結果はでませんでした