2014年01月19日

まき網船 ②



牛深の大中型まき網船に限って 書きますと
昭和30年代前半の頃から 牛深沖の魚資源に陰りが見え始め 
自然淘汰の中で生き残った船団は新しい漁場を開拓しなければならない情况になり 
ある船は装備を大型化して中国大陸の東シナ海へ出漁する船もでてきました

私の父の船は 当時未開拓 漁場だった鹿児島県海域の許可を譲り受け
 種子島 屋久島に漁場を求めて 出漁しました
牛深沖のイワシの減少と反比例して 鹿児島県沖のムロアジ 鯖 アジ漁場は
未開発の漁場ばかりでしたので その事が幸いして 豊漁の連続だったのでしょうね
しかも イワシと違って値段の高いムロ 鯖種でしたので 水揚げ高も飛躍的に延びた
のだと思います
その後 他の船団も追従して鹿児島県沖が主な漁場になりました
昭和40年頃からは 長崎船籍のまき網船団も参入して 鹿児島県沖は 一大活況の
時代に入りました
当時 牛深の船団は7ヶ統が鹿児島県沖を主漁場にしていまして
主な水揚げ港は枕崎、串木野 阿久根 が主でした 
大漁続きで 漁箱不足とか製氷不足とかもこの時代でした
牛深のまき網船の20年代がピークの一回目だとしたら 40年代は2回目の
ピークだったのかもしれません

その間 屋久新曽根、内之浦沖という 好漁場も発見され
オイルショックの波にも もちこたえる事ができました

50年代に入り バブルの前兆で アジの値段などトロ箱ひと箱(15キロ)
で1万円以上する時代になり 獲る船は ひと晩に5千万円を揚げる船もめずらしく
ありませんでした 
当然 各船団の間の 漁獲高競争も熾烈を極め 競争に勝つためには いい船を使い
ハイテクな魚群探索装置を他船団より 少しでも早く装備しなくてはなりません
当時 一台1800万円代のソナーが飛ぶように売れていました
まき網船の場合 一ヶ統5隻の船がいたら5隻で探索活動をするので 極端に
したら全隻の船に装備しなければなりません
牛深のまき網本船の建造ブームもこの頃昭和50年でした
当時 本船1隻がフル装備で一億二千万円だったのを覚えています

当時の船員さんとの給料取り決めは 固定給の他 歩合給でした
船主側も 利益が上がりすぎて税金で持っていかれるより 船員に還付したほうが
いいとの思いでしたので 当時の船員さんも 相当な高収入だったと思います

次回は衰退していった 年代などを 書きたいと思います
最後まで お読みくださいまして 有難うございます。



波場印


  
タグ :牛深


Posted by 波場印  at 10:25Comments(11)巾着船