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2014年10月27日

ナダナ(網干し場)

ナダナ(網干し場)
ナダナ(網干し場、 網棚、 ナラダ )
昭和20年代
魚網がナイロン、 テトロンなどの化学繊維に変わる前は綿糸でした
綿糸は湿気に弱く 濡れたまま船に積んでいると 腐って強度が弱くなる率が高くなるので  
 本船(網船)は夜 沖で網を海の中に つけたら 朝 沖からそのまま 
網干し場に直行して 網を干しに行かなければなりませんでした
漁労機械もない時代  全て人力で 引っ張り揚げて 網棚いっぱいに
広げて干して 午後 また船に積んで 家に 数時間帰って また沖へ出漁です
凪で豊漁が続く時は 毎日これの繰り返しでした
牛深の巾着網が最盛の頃 牛深の浜という浜 これが いたる所にありました
私の家の船の網干し場はネズン島(写真) 現在の牛島にありました(出の串の先にある離れ島です )


甘えん坊で親父っこだった私は 一時も父と離れるのが嫌で 沖に乗って ついて行くと言って きかなくて
 乗って行ったはいいですが 父の乗っている本船でいくと網干しのため 次の日の夕方まで 家に帰れないので
次第に 沖についていくのを 諦めるようになった という記憶があります
魚を積んだダンベ(運搬船)だと陸続きの港へ持っていくので朝 家に帰れたのですが 子供ですので
 沖で船を乗り移らせるのが危ないので そのまま本船に乗せてたのだと思います
沖で波が荒いと ブリッジ(操舵室)の中から 絶対 外に出ないように言われて 舵を握っている船長の足元で 
ションベンもさせていました  足元ズボンに ひっかかった船長が 
「コドンのと じゃいで 毒はなかどもん」と笑って平気な顔をしてたのも覚えています
いつも 網干しが終わるまで ナダナから魚釣りをしながら作業の終わるのを待ってました 
 それと 足が網棚の竹と竹の間に 入って子供の足では歩きにくかったのを覚えているので 小学校へ入る頃です
以上 昭和30年前半までの話です
昭和30年半ば頃から ナイロン など化学繊維になり網干しをしなくてもいいようになり
当然 網干し場も 必要なくなりました
乗り子さんたちも 楽になったと思います 闇中は船に積んだままでよく 干す必要がないので遠くの魚場まで
行けるようになりました これが巻き網の画期的な革命だったのだと思います

もし 皆様の家庭 ご親族に 80歳以上で若い時 巾着船を経験されたかたが おられましたら お尋ねしてください
「巾着船で何が一番キツカッタナ」?
絶対 毎日の網干し だというのは間違いないはずです
ナダナ(網干し場)

P.S
下の写真は 網仕風景です 綿糸の新網ですので白色です  これを カッチ染め コールタールで染めて使っていました
ナダナ  正式は灘棚(なだ だな)です
当時の干し場大工棟梁の息子さんが教えてくれました
ブリッジの中は 碁盤の目のようなバンコが敷いてあってシッコをしても 下に流れていくようになっていました






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Posted by 波場印  at 11:06 │Comments(24)巾着船

COMMENT
私の家のナダナ(網干場)は 家から遠く離れていたのですが
そこまで行くのに自転車で 兄と二人休みの日は網あせり
網が乾くまで 手でぬれたところを表面に出して一日がかりでしたね
夕方は 網積み
私のところは 無動力のもろ手巾着でしたよ
その後に 19トンの片手巾着になりましたが・・・
いやー 網干しが大変でした
Posted by 民宿大漁丸民宿大漁丸 at 2014年10月27日 11:26
懐かしいです
私の家は 無動力のもろ手巾着でしたが 網干しは毎日の仕事でした
兄と二人で 網干してましたね
夕方 網を積むまでに乾かさないといけなかったから
小学校のころから 中学校のころまでしていたことを 思い出しました
Posted by 民宿大漁丸民宿大漁丸 at 2014年10月27日 11:32
大漁丸様
パワーブロックもない時代、 濡れて重く 蛙又でカサのある網を よく引っ張り揚げていたものだと思います、
もろ手巾着は経験がないので わかりませんが 動きの早い魚を捕るのに有効なのですか? 東京湾で操業する もろ手の19トン型を TVでよく観ますよね
Posted by 波場印波場印 at 2014年10月27日 13:42
昔は苦労が多かったんですね。
楽しい記事でした☆
Posted by あひるちゃんあひるちゃん at 2014年10月27日 14:05
波場印さん 私もTVでよく見ます
船橋の網元さんでスズキを獲ってるようですね
片手よりもろ手の方が 囲むのが早いと思いますよ
カンの上がるのが早いし 半分巻けばいいわけですから
時化のときは もちろん片手がいいと思いますが・・・
Posted by 民宿大漁丸民宿大漁丸 at 2014年10月27日 14:13
大漁丸様
なるほど ですね、 
荒天のときは ゴツゴツ当たって危ないでしょうが 両方の網船のチームワークが必要ですね
お互い 長い間 生きてますね(笑)
体を大事にして まだまだ生きましょう
Posted by 波場印波場印 at 2014年10月27日 14:29
あひるちゃん様
私も大漁丸さんも長い間 生きてるでしょ(笑)
こんな話ができる 大漁丸さんがいてくださって 本当に嬉しいです
Posted by 波場印波場印 at 2014年10月27日 14:40
ネズン島(牛島)ここって溝口さんが車エビの養殖ばしょった所ですよね!
Posted by 牛島 at 2015年03月30日 00:18
牛島 様
Mさんのエビ養殖場は黒島ではありませんでしたか?
ネズミ島(牛島)の同じ場所の 現在は F水産さんの養殖場になってます
 
Posted by 波場印波場印 at 2015年03月30日 06:41
この写真を見て質問?この頃まだ道も整備されておらず、トラックもほとんど無い時代、どうやって明石(久玉)や天附のナヤに魚を運んでたんですか?巾着の運搬船が直接ナヤに魚を運んでいたのですか?
Posted by 明石の浜んこら at 2015年04月05日 22:42
明石の浜んこら 様
コメント有難うございます、
当時  魚を積んだダンベ(運搬船)は 今の船津 加世浦 長手 の湾の真ん中に停泊したり 接岸したりして 各加工場(ナヤ)のチャッカ船が 群がって買いに来ていました   ですから 全部海上運搬です
各船 大漁の時は 船津 加世裏 の湾内は イワシハカリの船で いっぱいになってました
多分、 久玉 明石 須口の湾内も同じ風景だったと思います
Posted by 波場印 at 2015年04月06日 06:43
ハーバー様へ!まるで昔の神戸港や横浜港の沖仲仕(港湾作業)みたいです!大型貨物船が湾に入っきてその荷物を艀に積み込む作業とにてますね!
Posted by 明石の浜んこら at 2015年04月07日 22:10
実はこの写真と同じ時代背景と思いますが、婆さんのタンスの中に古い写真があったんです!ナヤのおばちゃん達が船の上で鯖の頭むしり作業をしてる風景でした!婆さんに昔の話を聞くのが照れくさいので、ハーバーさんに質問してみたんです!
Posted by 明石の浜んこら at 2015年04月07日 22:29
明石の浜んこら 様
今のように漁協で入札とか無くて 巾着船の親方から 直買ですから
順番取りが激しかったようです 私は小学生の頃 カチャカチャのカウンターを持って どのナヤに どれだけやるのか 数をつける役でした
 遠慮しないで お婆さんにお尋ねしてください 頭ムシりなさっていたのでしたら 私より詳しいかもしれませんよ、
Posted by 波場印 at 2015年04月08日 08:18
このコメントに質問?この時代に久玉(東海岸)には鰯をとる巾着船はいたのですか?
Posted by 久玉湾 at 2015年04月12日 17:34
久玉湾 様
久玉にもいたと思います 私も幼少時代ですので はっきりとわかりませんが
 明石の○○丸とか 話にでてくるのを聞いたことがあります
Posted by 波場印波場印 at 2015年04月12日 18:48
ブログをよく見てますが、巾着船の話題が一番おもしろいです!ありがとうございました!
Posted by 久玉湾 at 2015年04月12日 20:27
久玉湾 様
見ていただいてまして 有難うございます、
巾着船のこと また思い出したら 書きたいと思いますので
よろしく お願いします
Posted by 波場印波場印 at 2015年04月13日 08:20
牛深カメラの吉川様の写真集と天草の100年という写真集を見てコメントしました、吉川様の写真集で見たんですがまるさん丸も牛島に網干し棚があったみたいですね!あと天草の100年という写真集では西岡様の大勝丸の写真や御所浦嵐口の漁栄丸の本船の写真などが掲載されてましたよ!!まったく上の写真と同じく木造の片手巾着本船の古い写真でしたよ!乗り子の方はみんなねじり鉢巻きで勇ましい写真でしたよ!
Posted by 法ケ島 at 2016年03月04日 01:28
法ケ島 様
牛島の あの場所には 一丸の油タンクもあったように思うのですが
私の記憶違いでしょうか?
Posted by 波場印波場印 at 2016年03月04日 07:08
上の写真の網棚は崎津では(カケ)といって現在もそのカケに手繰り船をつないでいて、カケとせどわと教会が世界遺産のネタになってますが、せどわなら崎津よりもカセンナのほうが複雑ですがね、新聞配達をやってた友達が船津、真浦、加世浦、長手の配達は迷路みたいで同じ苗字が沢山あるし新聞の集金も大変だといってました、
Posted by カセンナのせどわ at 2016年03月27日 10:14
カセンナのせどわ 様
私が幼い頃の長手は 自宅の前から老人クラブの前まで ナヤの
魚を干すための 竹で組んだナダラが 続いていました、
あの情景は もう帰らないのでしょうね ( チョット センチになりました、)
Posted by 波場印波場印 at 2016年03月27日 12:38
ハーバーイン様へ
この間の三枚の写真はブログネタにならないようでしたら、画像に使って下さいね、「牛深巾着船画像」で検索するとハーバーイン様の巾着船の写真とか出てきますよね、それと同じく画像にしていただければ私も嬉しいです!牛深巾着船の写真画像の著作権は保護されてるようですが、私が提供した写真三枚もハーバーイン様の著作権にしてください(笑)たまたま婆ちゃんの家をかたずけにいったらタンスから出てきたものですから、捨てるのはもったいないし、写真が何かのお役に立てたらと思ったんです!!それと私の祖父が昭和63年に亡くなった時にハーバーイン様からお悔やみいただいているようです、名簿に記帳されてましたよ!!
Posted by 明石の浜んこら at 2016年04月14日 15:35
明石の浜んこら様
私もどうやったら連絡とれるのか考え中でした
貴重な写真をありがとうございました
漁業史の本も 読ませていただきました 写真もpcドキュメントの中に保存させていただきましたので お返ししなければと思っていました
いつでもホテルにいますので おいでください、写真と本は お婆様が保管
されていたものですので お持ちになられていたほうが  いいと思います
Posted by 波場印波場印 at 2016年04月14日 18:40
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