ハーバーインブログ>巾着船>数え甚句
2016年01月07日
数え甚句
一は 一丸 ケンタロどん、
二は にしおか 千力丸、
三は サゴどんの まるさん丸、
四は シカキの たいせい丸、
五は ゴサどんの カイユウ丸
六は ??の ??丸
?と 以下は思い出せませんが 父の船は覚えていて
十は ジュマンどん の まんきち丸、 でした
これは 私が幼い頃 船の乗り子さん達が言っていた「数え文句」を
最初のほうだけ薄覚えしているのですが
当時(昭和20年代) 牛深に50ヶ統くらいの巾着船がいた時代
乗り子さんたちが 創作した巾着船の ”数え甚句” だと思います
今 思うと ちゃんと 覚えていればよかったな と思います
もし どなたか 知っておられたら 教えてくだされば幸いです
以上のように 記憶が曖昧なのですが
当時の乗り子さん達は 沖や網棚で網を引く時は 何かにつけ
調子のいい 創作歌とか 甚句のようなものを 歌いながら網を引いていたような覚えがあります
力仕事に飽きない為にか? 力が湧き出る為にか?、、、だったのかも知れません
綺麗な創作歌 甚句もありますが 男ばかりの仕事場ですので
今では公表できなく面白いですが ドギツい妖艶甚句が多かったのは 幼心に薄覚えしてます
幼い頃から こういう環境で育ちましたので
未だに 遠慮会釈ない歳寄りブロガーになってしまったのかもしれません
大変 申し訳ありません
謝りついでに
二十歳の頃 私の船の中で 教えてもらった 甚句ですが
「一 たろ、二 きゅじろ、三 きたろ、、四が馬で、 五が かずお、」
乗り子さん達の個人名がでてきたので
「そら 何な?」 と訊いたら
満吉丸の乗り子の中での 下のイチモツの大きい 番付だそうです
「馬よりフトカ 人の三人も おいと?」 私が訊いたら
そこにいたみんなが 「ジャイト、ジャイト」と言って笑っていました
でてきた4人の個人名様は 父の昔からの子飼い だった人たちで
今はとっくに この世にいない方々ですので 公表してもいいどころか
男としては 名前が残るだけでも いいと思います
ヘッシン ヨイサー!
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
でも こんな話、今は誰も教えてくれないので楽しいです♫
凄すぎます→→ 羨ましがったらダメですよ(笑)
明石の浜んこら 様
私の母が 少し事情がありますが 謙太郎どんの姪になります、
(謙太郎どんの妹の子供です)
当時 ライバルだったようで あまり私の家庭とは交流はなかったのですが
一丸が止まってから うちの船に乗られた人が数人おられたと思います
何分 昭和20年、30年代のことですので 私も詳しくは知らないのです
25年に亡くなられた叔父様は機関室でベルトに巻かれて亡くなった方ですか?
私が3歳くらいの時ですが もし そうだとしたら 私と貴方は親戚だと思います
当時 林兼(大洋漁業)が牛深にも だしてたみたいですね(南海丸?)
明石にも 数ヶ統いたと思うのですが あまりにも幼い頃ですので
申し訳ありませんが 魚生丸は知りませんでした
写真の真ん中が一丸、出雲丸だと思います
多分 そうでしょうね、 江崎汽船の船付場あたりから今のAコープ方向
でしょうね
牛深の隆盛を物語っていますよ
私も懐かしいです
明石の浜んこらさん わたしが小さいころ(半世紀前ですが)
魚生丸と言って こちらから明石までタコとかを活魚で運搬していました
オーナーは 浜田さんという人で明石の方でした
こちらに住居を構えておられましたよ
ブログ読んでいただいて感謝してます、
「明石の浜んこら様」のコメントで ますます解からなくなりました(笑)
私が昭和44年頃 牛深に帰ってきたときは一丸さんは巾着船を 止めて養殖事業をされていたと
思います ですので 一丸が稼動している時代は 私も幼少時代ですので 詳しく知りませんが
”母方の親戚が 一丸に関係している人が多いな”とは子供心に思っていました
おそらく 94歳になられる祖母様は 私の母と1歳くらいしか違わないので 私らのことも
ご存知されてるでしょうね? いつまでも健康で 長生きされますように と お伝えください
民宿 大漁丸様
富岡も同じだったでしょうが 人が多かったですね
子供の頃は 久玉、明石へ 行くことは 滅多になかったので
自分の近所のことしか解からないのです、
私が牛深へ帰ってきて 最初の仕事を思いだしました(笑)
富岡の水産高校の研修船が新船を建造して 払い下げになった「第一熊本丸」を
親父が運搬船に改造する為に買おうと言い出して 水産高校まで入札しに行きました
私は大反対でしたので 落札できずによかったあー と帰りの車の中で秘かに
思ったのを思いだしました(笑)多分 昭和44年頃です
灯船155t(新船)、また五島昭徳船団4ケ統に増えちゃいましたね凄いですね!これで九州西岸の新型巻き網本船199t型は第十一源福丸、第八十一大栄丸に続いて第三一昭徳丸…九州において199t型の本船は源福、大栄、昭徳の3ケ統になりましたね!!
おめでとうございます、
いつも お読みくださいまして ありがとうございます
岩瀬ヶ浦のカクジュウ様 頑張っておられますね、 お隣の○生丸さんは そのままなのでしょうか?
アメリカが石油輸出を40年ぶりに再開するように発表したので 燃油価格が下がって また沖合い漁業はよくなるかもですね
あと、キシン丸、ゲンエイ丸、アサヒ丸、ホウギョウ丸・・・があったと父親に聞きました。
母親は船津出身で、祖父は船大工をしていたと聞きました。
たまに牛深に帰りますが、ここ数年で、伯父さん叔母さん達が亡くなってしまって寂しいですね。
コメントありがとうございます、
ゲンエイ丸をを知っておられるのですたら お父様は 私らより年上でしょうね、おそらく お互い顔をみたら 私も知ってるし お父様も 私のことを
ご存知かもしれませんね(笑) よろしく お伝えください
父親は今年80歳ですね。
牛深には15年ほど前に戻り住んでいます。
80歳なのに、気に食わないことがあるとすぐに怒鳴ったりして、周りの人に迷惑をかけていないか心配です。
大変 失礼しました、私より10歳も年上で いらっしゃいますか(驚)
うちの船に乗ってた 誰あたりと 同年齢だな と今 思案中です(笑)
昔の漁師気質ですから 怒鳴るのはストレス発散のため いいですよ(笑)
いつまでも お体を大切に 健康で 長生きなさるように お伝えください
コメントありがとうございます、
私も 子供心に丸暗記で 言っていたものですので 解からないのです、
F水産様に 尋ねてみられたら いかがでしょうか?
シカキが天付け だということは 解かるような気がするのですが 天付け の どこら辺かは未だに 解かりません(笑)
いわれてみれば そうですね、船津、真浦、加世浦、長手の境目は
正確には 知りません(笑)
私は 名字で だいたいこの人は もともと何処の部落の人かは解かりますよ(笑)
コメントありがとうございます、
吉川様の写真集 私も観ました、上手に編集された いい写真集ですよね、
満吉丸も お蔭様で数場面 掲載していただいております、
表甲板のメシ場面は トモの食堂もあるのですが 夏の暑い時は 昔の癖で
外で丸座になって食べるのが普通でした、
ウンコ座りでなく インディアン スタイルと お呼びください(笑)
コメントありがとうございます、
そちらのほうに あまり行かないので 良栄丸(当時の小型巾着船)のダンベ
が まだ残っているのは知りませんでした 木船は鋼船のように 古くなっても錆びがでないので 生簀に使っておられるのかも知れませんね
コメントありがとうございます、
船津のH丸の 元親方 私も知ってます、
昔の漁師さんは加世浦 真浦 船津 それぞれ個性的な有名人物が
多かったですね
巾着船記事 読んでいただいて感謝してます
また 巾着船のこと 思い出したらブログアップしますので
よろしく おねがいします
コメントありがとうございます、
ナヤは私が中学生の時やっていまして 時々手伝っていました
パッタン (セロをひっくり返す作業)なんか上手だったですよ(笑)
昔の話 また思い出したらブログしますので 宜しくお願いします
全く忘れてしまって 思い出せません
5の船名も 昔から巾着船に乗ってた友達から教えてもらったのですが
「ジャタ キャー?」 てなもんです
八汐丸かもしれませんね
じいちゃん 私より ちょっと年上かな?
じいちゃんは巾着船で 「セッピャ キバッテ キトライチャイデ」大切に
してくださいね
私の中学時代 茂串にも巾着船いましたよ
一番左は まるさん丸の本船です、左から4隻目が 満吉丸の半鉄船の
母船です 満吉丸の本船は一番右から2番目の 白に 錆び止めを
点々と 塗った船です 月の間はペンキの剥げた所に 錆び止めを塗って
それが乾いてから 全体色の白を塗っていました
ありがとうございました、お借りして 拝見させていただきます、
長崎の漁船専門の造船所に行くと 事務所や カタログに載ってます、
本船パースセイナー、母船フィシュキャリアー 灯船ランプボート
外国のお客さんが来た時のためでしょうね
コメントありがとうございます、
父に 初めて鹿児島県沖の許可を 譲ってくださったのが甑島の方だったと
思います、名前までは知りませんが 記念に日本刀をもらってきたのを
覚えています